斉藤ゆうこのあらかわ日和

 あらかわ元気クラブの斉藤ゆうこです。
 お酉様の季節になり、今年も残り少なくなって参りました。
 今年は、1945年の9月2日、アメリカ太平洋艦隊の旗艦・ミズーリ号上において、日本が敗戦の降伏文書に調印してから70年になります。時の総理大臣が10年ごとに談話を発表し、「あの文言が入ったの、入らなかったの…」「謝罪したの、しないの…」というような騒動には、そろそろ終止符を打ちたいものだ、とつくづく思います。
 敗戦から70年。そのような転換を果たすには、我が国の政府と国民が根本的な解決を避け、引きずり続けてきた問題を解決する以外にありません。それは、極東軍事裁判という戦勝国による裁きではなく、この戦争に駆り出され、辛酸をなめた日本人自身の手で、日本国民の名において戦争指導者を裁き、敗戦の責任を内外に明らかにすることを曖昧にしてきた70年を終わらせることです。
 このことは「日本は本当に独立国なのか、主権国家なのか」という問題と表裏一体の関係にあります。昭和21(1946)年、アメリカによる占領下で極東軍事裁判が開廷され、わざわざその1周年に当たる昭和22(1947) 年5月3日に日本国憲法は施行されています。
 7年にわたる米軍占領時代を経て、昭和27(1952)年に「全面講和か単独講和か」が国論を二分して争われ、死者まで出したサンフランシスコ講和条約が発効しました。私が生まれる前年のことでした。
 戦後の我が国の進路を決定したこのサンフランシスコ講和条約と、同時に締結した日米安保条約。これに縛られ、米ソの冷戦終結から24年経った今日も依存し続けてきたことが、日本の真の独立と主権国家としてのありようを歪めてきた要因ではないでしょうか。
 敗戦から70年。今回大筋合意したTPP交渉では、他国の担当者をして「よくそこまで譲れるね」と言わしめ、また安保法制においてはアメリカの世界戦略に組み込まれ、米軍の指揮の下に自衛隊との軍事一体化を進める法制化が行われました。
 こういう状況を見て、最近は多くの普通の国民の中から「対米従属だ」「日本はアメリカの属国から抜け出すべきじゃないのか」という声が頻繁に聞かれるようになりました。それに比べて、政権与党も野党も、政党や政治家の方が、日本の独立や主権という根本問題を避け続け、日米関係にすっかり依存してしまい、こうした国民の素朴な疑問に答えられていません。
 今回のように国会での安全保障の議論や食料自給の議論が生煮えなのも、アメリカとの『共依存関係』に慣れきって自立することを恐れるまでになった政党や政治家が与野党を問わず国会に多いからではないでしょうか。
 私たち地方議員は、こういう国会議員に日本の将来を任せて「洞ヶ峠」を決め込んではいられません。
 去る11月11日、全国町村議会議長会は第59回全国大会で「日米地位協定の見直しに関する特別決議」を採択しました。決議は「我が国には、日米安全保障条約に基づく日米地位協定によって31の都道府県に131施設、約102,000ヘクタールの米軍基地施設が所在している」と述べ、沖縄を例に挙げつつ、「日米地位協定は、日米を取り巻く安全保障体制や我が国の社会環境が大きく変化しているにもかかわらず、昭和35年に締結されて以来、50年以上もの間、一度も改正されていない。これまで運用改善や環境補足協定の締結がなされてはいるものの、米軍基地から派生する様々な事件・事故等から国民の生命・財産と人権を守るためにはまだ不十分で、根本的な解決のためには日米地位協定を抜本的に見直す必要がある」と述べています。
 すでにヨーロッパで命運の尽きた連立政権入りにこだわり、「日米安保の棚上げ」という本質回避で国民の願望からかけ離れた対応に終始する、結党94年の歴史ある革新政党よりも遥かに果敢な対応ではないでしょうか。
 米軍基地建設やTPP合意、参議院の定数削減などをめぐって、政府と地方の対立が顕在化する中、町村議長会がこのような決議を挙げたことを国は重く受け止めるべきです。
 国会議員ばかりが日本の進路や生業(なりわい)を決める訳ではありません。47人の知事と都道府県議会、全国の区市町村の首長と区市町村の議会が、地域に生きる人々の安全と暮らしを良くするために果たす役割は大きいです。「地方自治体は国の方針に従うべきだ」という地方議員は早く国会議員になられたらよろしい。日米関係じゃあるまいし、「地方は国の言うことを黙って聞いていれば良い」というのでは地方議員の存在意義はありません。
 そこできょうは、敗戦から70年のこうした政治状況の下で、地方自治体と地方議会が持てる役割を果たし、「国の専任事項」などと言う向きもある国際関係にも地方の立場から口を出し、出来ることをやっていこう、どんな事にも主体性ある態度でのぞみ、『地方創生』のかけ声とは裏腹に、地方を困窮させる国の政策に対しては物申していこう、という考えで3点を質問します。基礎自治体としての荒川区の見解をお願いします。

■荒川区の友好都市との歴史的経過をふまえた深い交流について伺います。
 荒川区は国の内外の多くの友好都市提携を持ち、友好都市以外にも多くの自治体と付き合いを持っています。これらの自治体の中には、現在の趨勢につながる歴史上の大きな舞台となった所もあります。
 一例を上げると、友好都市ではありませんが、昭和43(1968)年7月に臨海学園を開設して以来、荒川区の小中学生がお世話になっている下田市があります。言うまでもなく、今から162年前の嘉永6(1853)年、アメリカのペリー艦隊=黒船が来航し、日本が開国をすすめる端緒となった外国との初めての条約、「日米和親条約」が締結された『日米関係発祥の地』です。
 下田市内にある「豆州郷土資料館・開国博物館」には、様々な歴史的資料が展示され、当時の状況を想像することができます。
 日米和親条約の第1条には「日本国と合衆国とは その人民 永世不朽の和親を取り結び 場所・人柄の差別之(これ)なきこと」と記されています。不平等条約である日米安保条約を破棄して米国との対等平等な関係に改め、両国民が平和的な友好関係を築くことを対案とする私の立場からすると、大変皮肉な思いがいたします。
 開国博物館には、「昭和のペリー」になりたかったマッカーサー元帥が、日本が太平洋戦争の降伏文書に調印する際、ペリーが日米和親条約締結の際に掲げた星条旗をわざわざ本国から取り寄せて掲げさせた、との苦々しい記述もありました。
 思えば、戦後から最近まで、金融や経済的開国を迫る「黒船」は何度もやってきました。プラザ合意、日米構造協議による牛肉・オレンジ、コメの市場開放、大店法の撤廃や行政手続法の制定などで日本に「開国」を迫り、内政に干渉してきたアメリカ。その総仕上げがTPPではないでしょうか。
 開国博物館には、「下田の歴史と史跡」や学校の教材とおぼしき「下田の歴史のなぜ?なに?江戸時代の終わり頃の話」が刊行され、当時の情勢やアメリカの対応、領事館が置かれた下田の人々が幕末にどのようにアメリカと関わったのかを知ることもできます。かの地で過ごす荒川区の小中学生のみならず、議会や区民もこうした下田市の歴史経過を知りつつ、交流を深めたら良いと思います。
 さて、今日の質問では、来年、国際友好都市提携10年となる中国の大連市中山区(ちゅうざんく)について区の対応を伺いたいと思います。日清戦争で日本が占領して日本租界を形成し、日露戦争では最大の激戦地となった大連市旅(りょ)順口区(じゅんこうく)は、中山区の西に位置する歴史的因縁の深い場所です。
 私が10年前に参加した荒川区国際交流協会の区民ツアーでも旅順におもむき、保存されている当時のロシアの要塞の跡を見学し、203高地にも行きました。明治38(1905)年、大日本帝国陸軍第三軍司令官・乃木希典大将と帝政ロシアの旅順要塞守備隊司令官・ステッセル将軍が旅順開城の交渉を行った水師営会見所跡は当時の建物が復元され資料館となっています。
 現在では大連市の観光名所のひとつであり、日本人の多くは大連に行けば必ず立ち寄ると言ってもよい場所ですが、記録によれば、155日間に及ぶこの旅順攻防戦で犠牲となって死亡した日本人の将兵は7,578人、ロシアの将兵は6,739人。負傷者を含めると日本側が61,400人、ロシア側は約30,000人に上ります。「観光名所」というには余りにも重い歴史的因縁の地です。
 日本軍の兵隊は全国各地から召集されました。なかなか攻略できない旅順要塞に対して白タスキ隊を編成して突撃を繰り返す戦術を取り、多くの兵士が犠牲になりました。一方の帝政ロシアでは、度重なる兵役と待遇に不満を持つ労働者や農民出身の兵士が多く、首都ペテルブルグで軍隊がデモ隊に発砲した「血の日曜日」で有名な1905年の革命の時期でした。
 旅順は日本人、ロシア人双方の多くの国民の血が流された、まさに屍累々の場所です。友好都市の私たちは、この地で命を落とした人々に対して、国の違いを超えて慰霊と鎮魂の気持ちを表わす場所ではないでしょうか。
 また、日清戦争に敗戦し、内乱状態にあった当時の中国人は、占領や列強によって租借される屈辱的な状況の中で、土地を奪われ、家を焼かれ、戦闘に巻き込まれて、多くの人々が犠牲になっています。
 帝国主義国同士が権益を奪い合い、覇権を競う戦争に駆り出され、結局、死んでいったのは両国の労働者や農民、普通の人々であり、土足で踏み込まれた国の人々でした。
 帝国主義列強の仲間入りをした大日本帝国が大国ロシアと争って辛うじて勝利を収めた日露戦争については、日本海海戦を日本・ロシアの双方の事情から詳しく描いた吉村昭氏の小説『海の史劇』もあり、大変興味深く読みました。
 司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』の主人公で海軍の作戦参謀だった秋山真之は、日清・日露戦争で勝利をおさめた功労者として功績を称えられていますが、のちに中国革命の指導者で中華民国の初代大総統となる孫文、つまり孫中山(大連市中山区の『中山』とはこの孫文の字名です)の革命運動を支援したことが記録に残っています。若き日、戦争の渦中に身を置いた秋山真之は、晩年、新興宗教である大本(おおもと)教(きょう)に入信し、49歳でその生涯を閉じています。彼の胸中に去来したのは戦勝の栄光だったのでしょうか。それとも国の命運を賭けて闘う中で多くの将兵を犠牲にした悲惨な戦争への無常の思いだったのでしょうか。
 「日中関係は国交正常化以前に戻った」といわれる昨今、大連市中山区との友好都市提携10周年にあたり、このような歴史的経過をふまえた深くて広い友好関係を構築すべきではないか、と考えますが、区としてどのような認識をお持ちでしょうか。伺います。
 明治政府つまり薩長政府は日清・日露、第一次・第二次大戦と4回の戦争を行い、太平洋戦争だけで310万人もの国民が死に、植民地支配や侵略によって同じアジアの人々に数多くの損害を与えました。そして最後は、日米和親条約から100年目のサンフランシスコ講和条約の締結によって、アメリカの同盟国として支配下に組み込まれるに至りました。
 「長州出身の宰相」を以って任ずるあの方は、この歴史的経過をどう総括しているのか、直接伺ってみたいものです。

【池田洋子 地域文化スポーツ部長答弁】
 大連市中山区との交流に関するご質問にお答えいたします。
 荒川区と大連市中山区は、平成17年4月、中山区長による荒川区への表敬訪問を契機として交流が始まり、10周年を迎えます。
 大連市の中心に位置する中山区は、中国東北部の政治経済の中枢機能や大学などの教育機関が集積し、歴史的な建造物や広大な公園、三方を海に囲まれた立地など、観光資源にも恵まれており、平成17年度の区と民間団体による訪問をはじめ、平成18年度、19年度、22年度に実施した区民ツアーでは、延べ約80名の方々の御参加をいただきました。
 この間も、平成18年度には、大連市の小学生が修学旅行で荒川区の小学校を訪れ、大連少年野球団と荒川区の少年野球チームが親善試合や交流会を行うなど、子ども同士の交流も行ってまいりました。
 更に平成21年度には、荒川区と中山区において両区の職員が相互派遣研修を行ったほか、平成23年度には区議会議員団の先生方も中山区を訪問し、意見交換を行ったと伺っております。
 このように荒川区と大連市中山区は、様々な交流を通して、お互いの歴史や文化を学んでまいりました。
 また、中国東北部で最大級の工業生産額を誇る親日的な大連市には、中国初のモデル芸術学校があることから、中国ファッションの発信基地にもなっており、ご案内のとおり日暮里ファッションショーには、毎年モデル学校の学生達が出演し、華を添えて頂いております。先日の日暮里ファッションショーにおいては、10回目を記念し、中国国家観光局や大連市の方々もお越しいただき、交流を深めたところです。
 加えて、先般、大連市の副市長一行が荒川区を表敬訪問し、スポーツや教育分野の交流を促進するため、区民運動場と尾久八幡中学校を視察され、また、まさに本日、大連市の防災担当が当区に視察に訪れるなど、様々な行政施策を通じた相互交流の可能性を模索する動きもあります。
 日本と中国大陸との交流は、弥生時代にさかのぼると言われており、2,000年にもおよぶ友好往来の歴史があります。近代100年においては、不幸な歴史もありましたが、昭和47年には日中国交正常化の共同声明が行われ、昭和53年に日中平和友好条約が締結されるなど日中間の友好交流の扉が開かれました。その結果、今日、日本と中国は、観光、文化、経済、貿易など様々な分野での交流が行われています。
 そうした背景を受け止めつつ、この交流10周年を1つの大きな契機と捉え、歴史的、文化的、民族的な繋がりを共に学び合うことを通して、基礎自治体同士ならではの交流や、住民相互の草の根の交流がさらに深まるよう努めてまいります。

■女子医大東医療センターの移転問題について伺います。
 本年5月1日、女子医大は足立区と協定を締結し、「移転予定地は足立区の江北エリアデザイン検討地域内で、足立区は再来年度を目途に用地確保に取り組むこと、足立区が予定地を確保し、東京女子医大に貸付けること、診療体制等については第三次救急病院、災害拠点中核病院、周産期医療センター、がん治療センターなどを想定し、協議すること」などを協定に盛り込みました。
 500床近い入院施設が区内から失われる事は大変な事態です。しかし、女子医大は、地元区である荒川区の区民の利用人数について明らかにしないという不誠実な対応に終始しています。特別委員会でも質問しましたが、荒川区民がどれくらい利用しているのか、数字は把握できたのでしょうか?
 まず、区民の命に係わる医療が失われてはならないという視点から、第三次救急医療を担う病院が区東北部に1ヶ所しかない実態を踏まえ、医療面での深刻な影響について荒川区として東京都に早急に申し入れる必要があります。区はどのように対応するのか、伺います。
 尾久の原公園の土壌汚染に関連した東京都との協定について、「最善の策だ」と区は主張しますが、尾久ポンプ場建設に対する地元還元施設の約束を反故にしてきた東京都に対して、いかにもオトナシイ対応だとの感想は否めません。女子医大病院の移転は区民の一大事です。基礎自治体の荒川区として、東京都への対応をぬかりなくやってください。

【倉橋俊至 健康部長答弁】
 東京女子医科大学東医療センターの移転問題についてのご質問にお答えします。
 当センターの移転計画に関しましては、本年2月26日、荒川区議会で反対の決議がなされ、その理由として、これまで、80年にわたりこの地域の医療を担ってきた東京女子医科大学東医療センターが、地域に根差し、多くの区民をはじめ近隣区にお住いの方々が利用する医療施設であること、災害拠点病院として災害医療にも重要な役割を担っていること、商店街など区全体の地域経済への影響も懸念されることなどが述べられております。
 区といたしましても、この移転問題が地域における医療面をはじめ区民に与える影響が深刻であることについて、全く同様の認識を持っているところでございます。とりわけ、医療面では、病床数や診療科目数をはじめ、救急医療体制及び災害時の医療体制などにおける影響があげられます。
 495床の病床数や、30科の診療科目数があることから、1日あたりの平均でも、入院患者数は400人を超え、外来患者数も1,400人前後といったような規模であることから、この地域における医療を大きく担っております。
 また、救急医療面では、三次救急医療機関として位置づけられていることから、二次救急医療機関では対応できない複数の診療科領域に渡る重篤患者に対する高度医療を担っております。
 さらに、災害時医療面では、区内で唯一の災害医療拠点病院として、災害発生時においては重症者を受け入れることとなっております。 
 このため、区として、これまでも様々な対応に努めてまいりました。本年は、東京女子医科大学に直接赴き、本件の実質的な責任者である副理事長に対しまして、区の見解を強く申入れ、また、東京都の財務局長と面会し、東医療センターの移転候補地とされる足立区江北4丁目の都有地の売却を行わないよう要請したところでございます。
 さらに医療面の影響に関しましても、東京都における地域医療構想策定にかかる意見交換の場など、様々な機会を捉え都に対して申し入れを行ってきたところであり、今後は、さらに働きかけを強めてまいる所存です。
 あわせて、東医療センターに対しましては、基本的な診療データをもとに区民への影響を分析する必要があることから、情報提供を求めてきたところでございます。残念ながら、区民の入院・通院・診療科目ごとの患者数や区内の診療所からの紹介者数など一部の情報については、提供を受けていないものがございますので、重ねて要求しているところでございます。
 区といたしましては、区民の皆様が災害時も含め安心して医療サービスを受けることができるよう、引き続き情報の把握に努め、区議会議員の皆様と移転問題に関する情報を共有しながら適時適切に対応してまいりたいと考えております。

■消費税増税に対する区の対応について伺います。
 再来年4月の消費税率10%への引き上げに際して、「軽減税率」の導入が言われていますが、対象品目をどうするか、減収の規模と社会保障費との関連について混乱が続いています。
 「軽減税率を導入しても物価は下がらない。そればかりかドイツでの調査によれば、高所得者層に恩恵が大きく、低所得者対策にはならない。さらに軽減税率は対象品目をめぐって特定業界への事実上の補助金となり、業界と族議員との癒着を生む」と付加価値税研究の専門家である湖東京至税理士は分析しています。
 消費税は、消費者が負担する税金ではなく、法律上の納税義務者は事業者であることは、この間の荒川区産業経済部の答弁でも共通認識として示されました。赤字でも年に一度納税しなければならないこの税を増税することで、どれほど荒川区内の中小事業者が苦境に陥るのか。平成17年度に免税点が年商3,000万円から1,000万円に引き下げられて以降は、区内の小規模な事業者も納税義務を負うことになり、廃業の引き金となりました。今年3月末に商店街のそこここに「3月一杯で閉店」との貼り紙が見受けられたのは、4月に初めての8%での納税を控えてのことでした。荒川区は「廃業に必要な資金を支援する制度」を始めますが、何とも言いようのない空しさと怒りを禁じ得ません。
 明らかな輸出補助金政策である消費税の輸出還付金制度によって、税率が上がれば輸出大企業が得る還付金も上がり、5%で3兆円なら10%で6兆円、20%なら12兆円となることも、すでに申し上げた通りです。輸出大企業のおひざ元の税務署では、管内で集めた消費税の全ての額よりも、輸出大企業一社に還付する金額の方が多く、国への納税額がマイナスになるという笑えない話もあります。
 消費税のさらなる増税は荒川区の地域経済にとって決定的なマイナスです。この際、アベノミクスの恩恵のない中小事業者を多く抱える荒川区として、免税点の引き上げ、簡易課税の復活、国家財政が赤字だというのならば、輸出のゼロ税率を廃止するなどの根本的対策を国に求めるべきと思いますが、当局の見解を伺います。この問題では、地方自治体として、ぜひ国にモノ申して頂きたいと思います。

【石原久 産業経済部長答弁】
 消費税に関するご質問にお答えいたします。消費税の増税は、高齢化で毎年増え続ける社会保障の安定的な財源を確保し、特定の世代に負担が偏ることのないような形で、将来にわたって社会保障を支えていくことを目的としています。
 したがいまして、消費税の制度設計については、社会保障と税の一体改革の中で、国がその責任の下において行うものであり、税率、免税制度、簡易課税制度、輸出にかかる還付金の制度、その他の制度につきましても、国によって議論がなされるものと認識しております。
 アベノミクスによる経済の好循環がもたらされる中、大企業におきましては、過去最大の収益を上げる企業も続出し、経営環境の大幅な改善が図られております。
 一方、中小企業・小規模事業者におきましては、円安による原材料高の影響による商品の仕入価格や製造コストの上昇、設備の老朽化、景気回復に伴う人材確保難などにより、アベノミクスの効果がいまだ十分に及ばず、収益の増加に結び付けることが困難な状況にあります。
 区で実施した7月から9月期の景況調査によれば、区内企業の景況感につきましては、DI、景気が良いと回答した企業の割合から悪いと回答した企業の割合を引いた値は、マイナス35.3となっており、前年同期と比べて約10ポイント改善しているものの、全国調査や東京都調査の値と比べて低い状況にあります。
 こうした厳しい経営環境におきましても、小規模事業者向けの設備投資補助金は、これまで様々な業種を通じて全体で160件を超えて活用されており、区内小規模事業者においては、今後の発展に向けた前向きな取り組みがなされているものと思われます。
 区におきましては、消費税の増税を見据え、区内中小企業・小規模事業者の経営基盤の更なる強化に向けて、国が実施していく中小企業・小規模事業者への支援策とも歩調を合わせながら、引き続き支援してまいります。
 また、区独自の景況調査により区内企業を取り巻く経営環境を把握するとともに、企業相談員による事業所への日常的な巡回を通じて、区内中小企業の経営者との対話により事業所ごとの経営状況をきめ細かく把握してまいります。その実態を踏まえ、必要性があり、公平かつ合理性のある事項については、必要に応じ、国や都に対して申し入れてまいりたいと考えております。